発狂練習

いち大学院生の嘆きの壁

空気と空気の会話

研究室に誰かがいたら、私は挨拶をする。「おはよう」「こんにちは」程度の普通の挨拶だ。相手と相手の状況によっては「元気?」「しばらくぶり」が続いたりすることもある。さらに二言三言会話することもある。

相手があからさまに自分を無視していたり敵意を示したりしていても、「おはよう」「こんにちは」程度は言う。こちらだって、そんな相手には挨拶もしたくない。相手が先に挨拶することは皆無に近い(「研究が忙しくて」という場面でのこともあるけれども、たいていは単なる無視や軽視)。
私はそういう時、研究室で今のようにイジメに遭っていなかった時期にそこにいたメンバーの姿を思い浮かべる。既に修了して出て行った、そこにはもういないメンバーに「おはよう」「こんにちは」と言う。目の前にいる自分をイジメている相手がどうであれ、私には、自分の記憶の中にいる好ましい人々の姿を思い浮かべて挨拶する権利があり、その相手のにこやかな表情や穏やかな声と一緒に語られた挨拶の返事を思い浮かべる権利がある。

今の自分は研究室の中で空気のようだ。「目立たないように存在する」以外のことをすれば攻撃される。空気であることしか許されなくなっている。その空気が、そこに既にいない人々の記憶に対して挨拶をしている。空気と空気が会話している。
空気になった自分が、既にいなくなったメンバーの空気に挨拶をして、その相手からの返事を聞いた気になる……ということを何ヶ月か繰り返しているうちに、
「これは、自分が死んだ後の世界だな」
と感じた。死後の世界や霊といったものを私は信じていないのだが、死んだ後で霊になって空気中を漂う自分が、霊と会話をする。その様子は、生身の人間には知られない。今の研究室での自分の姿は、まるで死後の自分のようだ。もちろん、私はまだ生きているのだが。

昨年のクリスマスイブの夜、私は突然、この
「生きながら死後の世界を生きている」
という状況に耐えられなくなった。研究室の状況は変えられないだろうから、耐えられなければ自分がやめるか死ぬか以外に選択肢はない。私は研究をやめたくなかった。残る選択肢は死ぬことしかない。
「死ぬことは先送りして、研究室と上手に距離を置いて、研究は続けて、年度末のメンバーの入れ替わりに期待し、同時にイジメが再発しないように諸方面と連携して対策を練る」
というような現実的な対応は、それはそれで考えていた。でも私は、今の苦しみが長引くことに耐えられないと思った。
私はtwitterの「magi_bot(乱数で「可決」「否決」を回答するだけの自動応答システム)」に
「死んでもいいですか?」
と尋ねてみた。結果は「否決」だった。私はさらに、
「今の仕事が一段落ついたら死んでもいいですか?」
と尋ねてみた。magi_botからの返事はなかった。もしかすると見落としたのかもしれないが。
magi_botからの返事を待つ間に、この一年半ほどに味わい続けていたはずの悔しさと悲しさが、一気に生々しく感じられた。私は一晩泣き続けた。